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東西の技法を融合させた創意あふれる陶芸家

 

多くの点でエドワード・ヒューズは正当に評価されることのなかった宝のような存在の一人で、彼のやきものは自国でより日本の方でよく知られていた。前の世代のバーナード・リーチと同じく、東洋、特に中国と日本のやきものや思想にものの見事に染まってしまった彼は、思索的で静謐な東洋のやきものと、生気とエネルギーにあふれる英国のスリップ装飾土器を高温で還元焼成し、融合させた。

 

その繊細な形、重厚で深みのある土の色には異なった文化の影響が気持よく調和し、混じりあっている。湖水地方で山歩き中に遭難、52歳で亡くなった時、陶芸家としての彼の力量は頂点にあった。

 

中等部低学年の時から土をいじる作業を好み、ランカスターの学校で教えていたバリー・グレグスンという、教師に生まれついたような魅力ある先生の影響でやきものに出会い、出会うと同時にやきものに夢中になった。 アカデミックな学科を重視する学校側のプレッシャーに負けず、また校長先生の忠告も聞かず、エドワードはAレベルの陶芸を勉強すると言って、その主張を通した。グラマー・スクール卒業後はカーディフ・スクール・オブ・アートに、続いてバース・アカデミーという、ロマンチックな雰囲気のあふれる芸大に進学した。芸大卒業後はレイ・フィンチ下のウィンチカム・ポタリで一時期修行した。ウィンチカム・ポタリは家庭や食卓で使える品質の高いやきものを作るという哲学を徹底して守った窯元であった。

 

日本に行けば陶芸の勉強をしながら作品を見たり、技法や制作の工程を直接学べると考え、エドワード・ヒューズは日本政府の奨学制度に応募、結果を待つ間、サマセット州にある製陶所で働いた。そこでは日に100個のマグを作るのが仕事で、その時初めて機械的なくり返し作業をすることに疑問が湧き、自分が進みたい道はこれではないと知った。彼が日本で過ごした期間はこれとは対照的で、発見に次ぐ発見の時であった。京都の芸大では幸福な一年半を過ごし、その仕上げに1979年、初の個展を開いた。

 

個展の成功で自分の工房を持つ勇気が出て、妻・静子と共に京都の北に位置する琵琶湖湖畔の古い田舎家を工房にした。ここで彼は灯油窯で高温還元焼成をする東洋のやきものと、躍動するスリップ装飾土器の技法を組み合わせた。東西のやきものを融合させた、創意に溢れる彼のスタイルはイギリス的な魅力を愛する日本人を惹きつけた。

 

京都、大阪、東京などで5年間個展を成功させたところで、エドワード・ヒューズは濱田庄司、柳宗悦がイギリスで蒐集したスリップウェア作品に出会った。そこで自分のルーツを思い出し、帰国してイギリス伝統のやきものをもっと知らなければならないと考えた。低温焼成の土器をつくりたいとは思わなかったが、素朴な形とざっくりした装飾から生まれる力強さに傾倒してしまったのであった。そしてそういう特質をもつ作品を作ろう、と1984年に帰国、湖水地方ペンリス近くに住み、作陶することになった。

 

15年前[訳註ー1989年]、コカマウス近くにある、広々としたアイスル・ホールに転居、昔の厩をスタジオに改造した。ここに1300度近くで焼く大きなガス窯を築き、自分に合った3ヶ月周期で年に4回ほど窯を焚いた。独特のジャグ、マグ、鉢、皿などを作ったが、フォームに対して繊細な理解を持ち合わせていたので、柔らかく緩やかな曲線や、幅広の安定した糸底といった特徴を生んだ。

 

スリップウェアに触発された彼の絵付けは抜群で、色違いの釉薬を流し掛けしたり、花柄をデザイン化したり、対角線をつけ加えたりした。地元で調達した木灰をもとに釉薬を作ることもしばしばであった。もっとも高く評価された作品のなかには直径50センチを超える大皿もある。飴色と茶色で草のような模様を連続させた一点にはデザインのリズムに満足感があり、レリーフに近い感じと共に記憶に残る。

 

作品の90パーセント近くは日本に渡った。日本では販売価格を高くする事ができ、作品の大半を買ってくれるのは家庭用のやきものを買い求める主婦たちであると知って非常に喜んだ。が、自国で相応の名声を確立するのは時間がかかった。イギリスの陶芸市場は保守的で、廉価な物を求めたからである。にもかかわらず、ノティンガム州マンスフィールドのオークウッド・ギャラリーでの個展が成功したのは注目に値する。他にロンドンの大和基金、ジョアナ・バード・ギャラリー、コカマウスのカースルゲート・ハウス・ギャラリーなどでも個展をした。エドワード・ヒューズの作品を所蔵する代表的な美術館、博物館はV&Aをはじめ数カ所ある。

 

エドワード・ヒューズはその作品のように物静かな考え深い人であった。自分の作品とその重要性に確信と自信を持ち、一品物を特別扱いしなかった。すべての作品は、ティーカップやソーサーであれ、大皿であれ、等しく重要であり、作り手は全力をあげて作らなければならないと決めていた。職名にはセラミストやアーティストより、自分はポターだ、陶芸家として知られたいと言った。そこには自分の仕事に深く関わり、献身的であったと同時に、やきものは使って楽しむためにあるという彼の信条があらわれている。

 

エマニュエル・クーパー筆

2006年4月21日付インディペンデント紙から再録 

 

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